16歳で、生まれ育ったオーストラリアにおける国立音楽コンクールの"ジャズピアノ部門"にて、優勝。
その後プロとして活動を始め、オーストラリア全土においてラジオやテレビに出演し、コンサートを開催。
20代前半、トッドはシドニーの非常に有名なLatin Quarter(カルチェ・ラタン)のミュージカルディレクターに就任。
ここで彼は5年間、作曲・編曲を行い指揮をとっていた。
と同時にSammy Davis Jr., Nancy Wilson, The Bee Gees, Helen Reddyといったアーティスト達を後援した。
ここでジョニーはジャズシンガーのEthel Azamaと出会い共に活動を行った。
Ethel AzamaはMel Tormeとダブルアクトとしてラスベガスで成功を収めたのち、カルチェラタンにやってきたのであった。
ジョニーとEthelはまもなく恋に落ち、Ethelの生まれ故郷であるハワイへの移住を決める。
ハワイに移住後すぐに、ジョニーはAnita O'Day, James Darren, Joey Heatherton, Kenny Rankin,Tommy Sandsといったアーティスト達の後援者として天分を発揮していく。
1969年、ジョニーはDonHoShowのミュージカルディレクターとしての仕事を依頼される。
彼はその地位に30年間従事し、アメリカ及び、カナダ、日本に渡ってステージやテレビのゲストアーティストや丼のために編曲を行い、指揮をとることとなる。
ジョニーは同時に時間を見つけては彼が愛してやまなかったジャズピアノの大規模なフェステバルやコンサートに出演することに専念した。それはときとしてソロリストとして、またはトリオとして、またはBuddy DiFranco,Paquito di Reviera, Steve Turre やBill Watrousのようなジャズの巨匠とともに共同出演することもあった。
1999年12月、ジョニーはDonHoとともに地方公演を行っていた。
NevadaのLoughlinでは 12月7日から10日にかけて "Riverside Hoter and Casino"に出演し、17日から19日までLasVegasの"Orleans"、20日はホノルル、21日は日本にて出演した。
23日、24日とジョニーは東京でジャズコンサートを上演し、Bassは奈良イサム、ドラムは石田ゆうじという日本人ミュージシャンが伴奏を行った。クリスマスから新年にかけて東京と埼玉では、様々なジャズピアノワークショップが開かれ、ジョニーは"Hello Project 2000" の一部として東京で娘のミカのコンサートを手伝う機会を得た。(2週間以内にすべての上演は売り切れた)
このような興味深い側面からのサポートによって後にミカは"Hello Project2000" "モーニング娘" "ミニモニ" "太陽とシスコムーン"のほかのメンバーとともにレコーディングを行うこととなった。
その結果、3つのシングルは5月8日に発売され、1500万枚の売上をあげた。
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